謙虚な天狗が送る毎日

ようこそ、「謙虚な天狗が送る毎日」へ。暇つぶしに見たくなるブログを目標に、ちびちび投稿します。

ミーハー的、ファスト教養的読書を堪能した一年のまとめ

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新年あけまして13日経ちまして、おめでとうございます! 

謙虚な天狗です。

 

昨年当ブログを読んでくださっていた読者の皆さん、ありがとうございました。

 

はてなスターやコメントが励みとなって、スローペースながらもブログを楽しんで継続することができました。

 

それと同時に、私もはてなブログで十人十色、年齢も性別もバラバラな方々の個性的な文章を読み、新しい気づきや学びを得られることが多々ありました。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

思い返せば昨年は衝撃的なニュースがいくつかありました。

世界的に見ればやはりロシアのウクライナ侵攻、日本で言うと安倍元首相襲撃事件でしょうか。はたまたそこから派生した統一教会の問題。

考えさせられることが多かった。

 

考えさせられると言えば、ネットを中心に人工知能による自動絵画ツールも話題になりましたね。もうこんなことができる時代なのかと驚愕しました。

一方で、この発明によって誰かが幸せになったのかと考えると疑問も残ります。

 

AIの進化はもはや誰にも止められないのか。あの人気ゲーム『Detroit become human』の世界が現実になる日もそう遠くないかもしれません。

 


www.youtube.com

自分は2年くらい前にYouTubeで実況プレイ動画を見ただけですが、「いまのゲームってこんなにリアルなの!?」と驚いたのも束の間、鬼気迫るアクションシーンや重厚なストーリー展開に圧倒されました。

まさに映画を見ているような感覚です。舞台がデトロイトというのも良いんですよね。

技術革新に翻弄され、光と闇を経験してきたデトロイトでしか醸し出せない興奮と悲壮感。

そうなってくると個人的に東京とかはゲームのコンセプトとイメージが違ってきちゃうと感じます。

 

一種のバグのような形で意志を持ってしまったアンドロイド”変異体”たちが、度重なる逆境の中を生き抜いていき、アメリカ全土を揺るがす大波乱を巻き起こしていくというのが大筋のストーリー。

 

ゲームを通じて何度もプレーヤーが問われることになるのが「アンドロイドは人か?それともモノか?」というテーマ。

近い将来、ほぼ確実に私たちが直面する問題でもあると思います。

 

ゲームの中では数えきれないほどの分岐ポイントがあり、各プレイヤーによってエンディングが異なるのもこのゲームの醍醐味です。

 

この作品はぜひとも全人類にプレイor視聴してほしくなりますね。YouTubeでの実況プレイが公認されているゲームなので、ゲームはしないという方でも動画を見て十分楽しめます。

ただし、気づくと週末が溶けている、なんてこともあるのでご注意を。

 

 

昨年の出来事で印象的だったのは、やはりワールドカップです。上半期のことがイマイチ思い出せてないような気もしてあれですが、やっぱりワールドカップのアルゼンチン優勝は劇的でした。

私が小1でサッカーを始めたときくらいから既に、私にとっても世界中のサッカーファンにとってもメッシは大スターだったので今回本当に優勝できてよかった。

ムバッペ頼むからもうやめてくれ、と何度思ったことか。頼むから、頼むからメッシに譲ってくれと。化け物ですよほんと。

 

日本代表もやってくれました。番狂わせに続く番狂わせ。まさかワールドカップという大舞台でスペインとドイツに勝つとは……。

 

4月にグループステージの組み合わせが決まったときにも記事を書きましたけど、スペインとドイツ相手には引き分け狙いで戦っても厳しいと思ってましたから。

chaplin0549.hatenablog.com

 

でもクロアチアが渋かった。渋サッカーを徹底してましたよ彼らは。

やはりボールを持たされたときのビジョンが不透明で、完成度が足りなかったのがベスト8食い込めなかった原因かなと思います。ほんと惜しかった。

凄まじい戦いには勇気をもらいました。感謝!

 

 

さて、本題に入ろうと思います。実はこの記事年内に書き終えたかったのですが、計画遂行ならず。

まぁでも「2022ベストバイ」とか「2022もっとも聴いた曲」とかって正確に書きたかったらほんとは12月31日まで待ってから構想し始めないといけませんよね。

 

ということでそのためにわざと遅らせた、遅らせたんです!!

 

私は雑記ブロガーのなかでは圧倒的に本を読まない方に区分されるだろうと思われます。大学図書館の貸出履歴を見たら今年は23冊。ただ、途中で投げたものもあり、本屋で購入したのも何冊かありました。

だいたい合計24冊くらいになったので一か月に2冊という感じか。うーん。もっと読まなあかん。

 

ということで母数は少なすぎるのですが、その中でも特に印象深かったものをいくつか紹介したいと思います。

 

 

目次をざっと見てもらったら分かる人も多いと思います。

そう、まさにミーハー的ラインナップ。

とにかく売れ筋ランキングだったり、芥川賞に入っていたような表層の部分を読んだという感じです。

 

母数が少ないとこうなっちゃいがちです。でも読まないよりは良いかなってことで。

単純に興味が湧いたものから手っ取り早く読んでいった結果、ミーハー的、ファスト教養的読書になりました。

 

ただ、それでもなんとなく身になった感がある。

 

これがファスト教養的読書のおそろしいところです。

 

哲学部門①『史上最強の哲学入門』飲茶

ー哲学とは、何かー

あえて比較するなら、去年読んだ本の中で一番おもしろく、新しい発見も多かったのはこの一冊だったかなと思います。

正確に言うと西洋哲学編と東洋哲学編の二冊あります。

 

西洋哲学編で31人、東洋哲学編で13人にスポットを当てながら哲学のアツい歴史を追っていくという構成になってます。

 

その道の専門家から見ても、短いながらその人物のエッセンスがバシッと捉えられているとのことで、まさに史上最強の名にふさわしい完成度らしいです。

 

名前だけ知っているような偉人が、どのような時代背景でどんな思想をもっていたのかというのが、とても端的に、それでいて知的好奇心をそそるような文体で書かれているので続けざまに二冊とも読んでしまいました。

 

哲学は、人間にとっての真理を追い求めていく学問ですが、イマイチ哲学に興味が湧かないという方も多いと思います。

そのような人たちは、「真理って別にひとつじゃないし、結局はひとそれぞれでしょ?他人には他人の考え方があるんだから、それで終わりでいいじゃん。それが答えでしょ」という考えをなんとなくもっているのではないでしょうか。

 

この考え方を相対主義と呼びます。私自身も本書を読む前は心のどこかでそんなことを思っていたのですが、第一章で早くも出鼻をくじかれます。

 

何となく現代人の感覚からすれば、昔の人々は迷信ばかりを信じていて頭が固く、一方現代人は広い視野を持っていて物事を相対的に捉えることができる・・・と思いがちであるが、それは大きな間違い。「価値観なんか人それぞれさ」という相対主義的な考え方なんか、人類は、もう二千年以上も昔にとっくに通過しているのである。(『史上最強の哲学入門』)

 

マジかよっ!

少なくとも紀元前410年頃には既にプロタゴラスという哲学者が相対主義的な考え方を提唱し、民衆の間にも広まっていました。これはびっくり。

 

では相対主義の欠陥はなんなのか、というような論点から、次のソクラテスの章に続いていきます。

 

日常的に降りかかってくる具体的な問題や不安を片づけるのに、哲学と言う抽象的で現実味のない学問は一見すると役に立ちそうにない、と思うかもしれません。

 

しかし本当は逆で、数学で公式を学ばないと練習問題に歯が立たないのと同じように、「生きるとは何か」という骨組みについてまずは考えないと、生活の中で目の前に塞がる問題に対して、自分で納得できる解を見つけ出すことはできないと思います。

 

そのことに気づかせてくれた本でもありました。

 

哲学部門②『現代思想入門』千葉雅也

ー人生が変わる哲学ー

途中までは「ほうほう。なるほど」とスローペースながら頁を進められていたのです。しかし、6割を過ぎたくらいからじわじわと話の輪郭がぼやけていき、ついには振り落とされました。

今何の話をしているのかわからないゾーンに突入しちゃった。

ネットで哲学系の本を検索したときに、なんとなく良い感じだったからという理由で手に取ったのですが、入門といえど今の私には難しかった。

 

一応は哲学の知識ゼロの人向けの書籍だと思いますが、他の人はすらすら理解できる類のものなのか、気になりました。

 

前半部分は理解でき、面白くて新鮮な観点からの話が書かれていたので紹介させてもらいました。

 

デリダ、ドゥ―ルーズ、フーコーなどの現代哲学における偉人たちの思想の真髄を紹介してくれる入門書です。

 

物事を二項対立から引き離して考える手段や、近年の行き過ぎた秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておくことの重要性などが語られていました。

 

先ほど紹介した『史上最強の哲学入門』のノリで行けるかと思ったら壁にぶち当たった感じです。もう少し現代以前の哲学について大枠だけでも知ってから読んだ方が読みやすかったのかなと言う感じです。

 

哲学のことについてひととおり調べていると、哲学者でメディアにもそこそこ出ている東浩紀さんの『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』という本が結構有名らしいということがわかってくるんですね。

意味は分からないけどタイトルがかっこいい。いつか読めるようになりたいです。

 

経済部門①『22世紀の民主主義』成田悠輔

 

ー革命か?ラテか?ー

成田さんは一昨年からテレ東などのメディアによく露出されるようになったと記憶してます。

主たる肩書きは経済学者で、米国のイェール大学で准教授をしたり、サイバーエージェントやZOZOなどの企業、または国と協力してデータ分析の研究を行っているそうです。

 

冗談っぽいことを生真面目に話したり、シニカルに人を馬鹿にする心意気が個人的にも興味を惹かれましたし、成田ファンの人達の大半もその魅力に取り込まれているんだと思います。

あと、丸と四角のアシンメトリー眼鏡にも惹かれました。マッドサイエンティストならぬマッドエコノミスト味がつよいので。

でもマッド感で言えば次に紹介する斎藤幸平さんも負けてないと思います。

 

成田さんを見始めた当初は彼の発言に注目して動画を漁ったりしていたのですが、次第に「成田悠輔」という人間自体について知りたくなってきたんですよね。

というのも東大主席であり、ギフテッドであり、睡眠障害、思想家の父親が失踪、弟が上場企業の創業メンバー、などなど情報の嵐が押し寄せてきますので。

 

押し寄せてくるにも拘わらず、本人は飄々として実際のところ何を考えているのかまったくもって分かりかねるのです。

 

そこで今回紹介した本書を読むことで、インタビューに答えるときのように受動的でない、成田さんの思考を覗いてみたかったというわけ。

本書は、

 

選挙オワコン! 政治家機能不全! 資本主義暴走!

これ、どうなっちゃうんだ!!??

民主主義、崩壊。 だめーーー。

 

というトム・ブラウンもびっくりの現実を、経済学者兼アルゴリズム研究者である成田さんのユニークな視点から解説するとともに、3パターンの未来予想図を提示するというもの。

SFは、想像力の限りを尽くして、ありえる世界とありえない世界の境界に触れ、あり得ることを押し広げる営みだ。浮世離れして現実に追いつかれないことが価値になる。

この本の試みはむしろ逆だ。近未来の浮世に接近してみたい。まだ人々の脳に染みついていないが、いったん語られてしまえば、つい腑に落ちてしまうこと。素直に受け入れられてしまうことが目標だ。(中略)無意識データ民主主義は構想と言うより予測である。(『22世紀の民主主義』)

一見すると突拍子もないような意見に聞こえる発言も多い普段の成田さんの、意図や思考が垣間見れる文章って感じがしますね。

 

経済部門②『人新世の「資本論」』斎藤幸平

SDGsだけで満足していませんかー

肩書きは、マルクス主義者。インパクトは強めですが、本書を読むと見方が変わるかもしれません。

 

人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな時代に突入したと言い、それを人新世(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代と言う意味である。(『人新世の「資本論」』)

 

資本主義の抱える問題点を一つひとつ深掘りして解決策を提示することで、新しい社会構造「脱成長コミュニズムの輪郭を描き出していくのが本書『人新世の「資本論」』です。

 

本書の詳しい内容については、記事にしてますのでこちらをご覧ください。

chaplin0549.hatenablog.com

 

 

そういえば2022年には、こんなこともありました。

www.cnn.co.jp

最初にニュースを見たときは、率直にえ?何やってんのwという感じでした。

ただ、この騒動も「やり方が悪い」で結論付けてしまうのはちょっと寂しい。

 

調べてみると、絵画に保護ガラスがあることを前提にぶっかけたらしいので、予想ですが仮にガラスがなかったらこの方法をとっていなかったかなと個人的には思います。

 

ただ、もしガラスがなかったらこの人たちは熱狂的なゴッホファンに命を狙われていたとしてもおかしくなさそう。

例えばゴッホ(生存)に向かって暴言を言ったりした、とかならまだ良いですけど、やっぱり”一度壊れたら二度と戻らないモノ”に対する人間の執着は凄まじいと思いますから。

 

しかし、「地球」という天体もそのひとつの例だということを忘れてはいけません。

ただ残念なことに、今のところそれに執着する人間はごく少数なのです。

 

そして現代の日本、いや、世界的に見ても最もそこに執着している人間のひとりが、斎藤幸平さんでしょう。

本書に出会ったことで環境問題に関する解像度が劇的に上がり、根拠のある危機感を抱くことができるようになったと感じます。

 

「脱成長」に関しては個人的にも情報量が皆無に等しく本書で得た知識程度しかないので、現時点では懐疑的にならざるを得ません。

今後、そちらの方面に踏み込んだ本にもトライしてみようと思います。

 

小説部門①『推し、燃ゆ』宇佐見りん

ー推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。ー

この書き出しが、数百年後の小学生に暗唱されているかもしれません。

 

ちょうど2年前くらいに芥川賞を受賞した作品。ちょうど受験と被っていたので読むタイミングを見失っていました。

ただ、受賞した当時、テレビかなんかでちらっと紹介されてるのを見たときの第一印象は、なんかトレンド取り入れてんなーみたいな感じで正直ポジティブなものではありませんでした。捻くれてんね。

 

きっかけは忘れたのですが、最近になってふと読みたくなったのです。

2年で成長したのでしょうか、トレンド色のつよい作品だからこそ人間の普遍的な生きづらさ、息苦しさを効果的に表現できるのではないか、と考えるようになりました。

 

簡単に言えば「推し活レベル100」の女子高生が本書の主人公、あかりです。

推しを少しでも深く理解したい、笑顔が見たい、と没頭するうちに、気づけば自分の生活がぽろぽろと崩れていく。

その様が異常なほど繊細に描写されているので、読んでいるこちら側もだんだんと心が重くなってくる感覚になります。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せが来る。(『推し、燃ゆ』)

あかりには精神科で二つほど病名が付いたと書かれているので、おそらくADHDのような発達障害でしょう。しかし、かといって発達障害でない人が共感しにくい描写ばかりではないと思います。

日常的に誰でも感じ得るやるせなさや葛藤が表現されています。

切っても抜いてもまた伸び続けるものと、どうして延々向き合わなくてはならないのか。わからない。ずっとそうだった。(『推し、燃ゆ』)

 

物語は頁をめくっていくごとに薄暗くなり、あかりと周囲との摩擦は大きくなっていきます。

 

姉が唐突に怒りをあらわにしたのは、彼女の大学受験の勉強中だった。(中略)いつものごとく、母が勉強のことであたしを𠮟り、あたしが「やってるよ、がんばってるよ」と脱衣所に向かって声を張ると、勉強していた姉がいきなり手を止め、「やめてくれる」と言い出したのだった。
「あんた見てると馬鹿らしくなる。否定された気になる。あたしは、寝る間も惜しんで勉強してる。ママだって、眠れないのに、毎朝吐き気する頭痛いって言いながら仕事行ってる。それが推しばっかり追いかけてるのと、同じなの。どうしてそんなんで、頑張ってるとか言うの」
「別々に頑張ってるでいいじゃん」
 姉は、あたしが大根を箸で持ち上げ、頬張るのを目で追いながら、「違う」と泣いた。ノートに涙が落ちる。姉の字は小さく、走り書きであっても読みやすく整っている。
「やらなくていい。頑張らなくてもいいから、頑張ってるなんて言わないで。否定しないで」
 びち、と音を立てて大根が器に落ち、汁が飛んだ。(『推し、燃ゆ』)

 

現実世界でも、「発達障害の人は生きづらい」という言葉の裏にはとても複雑な構造があります。

当事者が頑張って周りに合わせようとすればするほど、かえって周囲にストレスを感じさせてしまい、それが原因でまた・・・と負のスパイラルから抜け出せなくなったりすることも多いんじゃないかと思います。

 

推しを推せば推すほどに、息ができなくなって苦しくなる。

しかしそれが生きる意味でもあり、”背骨”であるあかりは、さらに深く推しにのめり込んでいくことしかできなくなっていきます。

 

主人公の葛藤を肌感覚で伝える微細な描写と、加速度的に自分を見失っていく様を見事に捉えた力強いドライブ感との緩急に圧倒される、そんな作品でした。

 

小説部門②『破局』遠野遥


www.youtube.com

ー新時代の虚無ー

『推し、燃ゆ』を読了後、芥川賞繋がりで脳内にほわんほわんと浮かんできたのが、遠野遥さんの顔面でした。”新時代の虚無”をいかにも描きそうなオーラが、きっと印象に残っていたのでしょう。

記者会見の受け答えすらも儚く。いったい何者なんだ。

 

実は遠野遥さんのお父様は『BACK‐TICK』と言うバンドのボーカリスト、桜井敦司さんだそうです。

私は存じ上げなかったのですが、おそらく私が知らないだけパターンですね。

表現力DNAが、無事に受け継がれたということでしょう。

 

身体も心の鍛錬も怠らない強靭性から、母校でラグビー部のコーチを務めたり、公務員試験に向けて計画的に着々と勉強を進めたりと、隙のない日常を送る大学四年生の陽介『私』がこの物語の主人公です。

しかし、政治家を志す彼女の麻衣子と、大学のお笑いライブで偶然出会った灯(あかり)の二人の女性の間で『私』の心情が揺れ始めていきます。

 

確かに「揺れている」はずなのですが、その波動がとても曖昧なのです。本文は『私』の一人称で語られているにも拘わらず、どこか俯瞰的というか、不思議なほど淡泊に物語は進んでいきます。

膝さんってちゃんと友達とかいるんですねと女は笑った。いやな女だと感じたから、私は笑わなかった。膝にだって、ちゃんと友達はいる。女が笑うのをやめたので、私は笑うべきだった。窓の外が気になったと思い、そちらを見た。変わったところは何もなかった。(『破局』)

なんとでもない場面ですが、思考回路はどこか機械的

 

右の女はショートパンツをはき、脚を露出させていた。席と席が近いことにかこつけて、私はこの女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった。(『破局』)

「公務員を志しているのだから、やっぱりそんなことはやめよう」と考えるような人間が、果たして最初から脚を本気でぶつけようとしたりするのか?なんて考えてしまいます。

しかもこの文章を読んだとき、いや確かに脚をチラ見しちゃったりすることはあるけど、そんなスムーズにぶつけようとするとこまで行くか?と驚きました。

 

物語全体を通して、空洞を覗いているかのような感覚に陥っている中、ふとしたタイミングで浮上してくる肉体的なエネルギーがアクセントとなっているように感じます。

 

他にも、感情の見えない『私』とは似ても似つかない、実に人間臭い”膝”という友人との対比など、言及したいポイントがわんさかです。

 

代わりに服の上から大胸筋を触らせてやると、灯はうれしそうに笑い、それを見た私も嬉しかったか?(『破局』)

自分自身に対してナチュラルに疑問符を使う表現にも面食らいました。

 

 

北海道旅行をする中で、ひとつ印象的な場面があります。

冷たい雨の中、『私』は彼女である灯に温かい飲み物を買ってあげようと思い、自販機に向かいます。

ところが、自動販売機には冷たい飲み物しか置かれていませんでした。すると灯に飲み物を買ってやれなかったことをひどく残念に思った『私』の目からは突然涙があふれ、止まらなくなります。

 

ここではじめて『私』は、自分がずっと前から漠然とした悲しみの中にいたのではないか、ということに気づきかけるのです。

このシーンは、本書の中で最も『私』が自分の感情に接近した瞬間とも言えます。

しかし次の文章で、案外あっけなく『私』は平常心に回帰し、このまま物語の結末である『破局』に向かって静かに進んでいくのです。

私には灯がいた。灯がまだいなかったときは麻衣子がいたし、その前だって、アオイだとかミサキだとかユミコだとか、とにかく別の女がいて、みんな私によくしてくれた。その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。(『破局』)

 

2022年の総括

私にとって2022年は、答えのない問いに対して比較的真剣に向き合い、考える一年だったと思います。

ただ、自分の将来について考えれば考えるほど迷路の奥深くまで入り込んでしまい、はっきりとした答えは見つかりませんでした。

まぁ、はっきり分かってしまう方が怖くはあるんですけど。

 

はぁ、モラトリアムに生きる典型的な、典型的すぎる大学生になってしまった。

 

じゃあ、2023年はどうなんだと。

実は、今年に関しては個人的に絶対やるべきこと、成し遂げたいことがひとつ明確に決まっているので、それに向けて精進します。

 

中学生の頃、この所信表明的なことを作文とかに書くときに「~したいです」「~できれば良いなと思います」と書くことが癖だったのですが、担任の体育教師に「~します」「~できるようにします」と書け!!と指導されました。

世にいう言霊ってやつ。

文章を書いているとそのことが頻繁に蘇ってくるんですよね。当時も今も、それ揚げ足取りじゃね?あんま変わんなくね?と心のどこかで思いつつ、わざわざ逆張りする必要性も感じないので、結局教えに背けないでいます。

 

 

今年もよろしくお願いします。

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